My Backbone 本と映画と音楽と ~「小清水 志織」こと Yくんのリクエストに応えて~ 


  『歴史ができるまで』(J.H.エリオット 著。2012<平成24>年 初版。立石博高・竹下和亮 訳。岩波現代全書 刊)


※このホームページの「脚下照顧」のコーナーから

J.H.エリオットの「…過去を当時の人の眼で見て、経験すること」という考え方に、これまでボンヤリ思ってきたことを明確にするための

「補助線」をもらいました。『歴史ができるまで――トランスナショナル・ヒストリーの方法』をネットで注文しました。これで、三位一体。

E.H.カーの「歴史は、現在(未来も)と過去との対話」と、阿部謹也の「歴史は自分(の内面)と過去との対話」にプラスした「3つの補助線」。

J.H.とE.H.の「H」が、History のHに見えたりして…。以上、K先生へのメール文章の一部から。J.H.エリオットの前掲書を読み終えて。 

2019.1.4


「春心」は旅心に通じる。今、どこかに旅するのもいいし、過去の思い出を旅するのもいい。過去は自分史という歴史。歴史を解するコツ

(「補助線」)は、次の三つの考え方。「歴史は、現在(未来も)と過去との対話」(E.H.カー)と「歴史は自分(の内面)と過去との対話」(阿部謹也)。

そして、「過去を当時の人の眼で見て、経験すること」(J.H.エリオット)。 2021.3.9


数年間に読んだ『ホモ・デウス』(ユヴェル・ノア・ハラリ 著。柴田裕之 訳。2016<平成28>年 河出書房 初版)上・下2巻の

読書備忘録。一時期(2年前)、ずっと「ハラリ本」を読み進めていた。『ホモ・サピエンス全史』から『21 Lessons 』も含めて。この日、

折り曲げたページを中心に再読しながら、傍線と書き込みをした。

  「歴史の研究は、私たちが通常なら考えない可能性に気づくように仕向けることを何にもまして目指している。

  歴史学者が過去を研究するのは、過去を繰り返すためではなく、過去から解放されるためなのだ。」

  「歴史を学ぶ目的は、私たちを押さえつける過去の手から逃れることにある。歴史を学べば、私たちはあちらへ、

  こちらへと顔を向け、祖先には想像できなかった可能性や祖先が私たちに想像してほしくなかった可能性に気づき

  始めることができる。(中略)歴史を学んでも、何を選ぶべきかはわからないだろうが、少なくとも、選択肢は増える。」

  「歴史を学ぶ最高の理由がここにある。すなわち、未来を予測するのではなく、過去から自らを解放し、他のさまざまな

  運命を想像するためだ。もちろん、それは全面的な自由ではない。私たちは過去に縛られることは避けがたいが、

  少しでも自由があるほうが、まったく自由がないよりも優る。」
            
 2021.3.9付のこの「脚下照顧」で、私は以下の様に記している。歴史を解するコツ(「補助線」)は、次の三つの考え方。「歴史とは、

現在(未来も)と過去との対話」(E.H.カー)と「歴史とは、自分(の内面)と過去との対話」(阿部謹也)。そして、「歴史とは、過去を

当時の人の眼で見て、経験すること」(J.H.エリオット)。
 
 四つ目の考え方に出会った! それは、「歴史とは、過去の束縛から解放されて未来の可能性に気づくためのヒント」(Y.N.ハラリ)。 

2024.6.25